梅田さんの記事と、対談した小宮山さんの卒業式告辞をみると同じことを言っている。「信ずるところを進む」ことの重要性だ。そして、梅田さんのBLOGへの反響を見てもおそらくこれは大半の人が(とくに日本人が)賛同する精神的な対峙の仕方なのだろう。
私は、この双方の話を見ていてこれは技術者の世界の話ではないか、あるいは企業でいえばメーカーの話なのではないかという気がしている。戦後の60年間、日本の科学技術研究に関する評価の体制が特に硬直化しており、地道な研究はなかなか評価されにくい土壌があった。これがこの二人の話の背後にあるのではないだろうか。大学という組織、大企業の組織の中で個人の研究や開発意欲を削ぐさまざまな障害が多数あったことと無縁ではないだろう。特に指導的な立場にある教官の権威は絶対だったのだろう。インターネットの時代になって、今世紀に入ってから、欧米の特に米国の個人主義的な自由な研究の空気が充満してきてはじめて、これまでの研究のやり方では窒息すると誰もが感じるようになったのだろう。そういう意味ではこの二人の感覚を否定するものではない。
ところで、そういった歴史の背景を勘案しても、小宮山さんの告辞にある二つ目の話、俯瞰するということのほうが私には一層重要に思える。自らの位置を確認し、定位することだ。これは素直な性格と他人の話をどれだけ理解するかという社会的センスが問われる。身近な指導教育がなければちょっとしたこともわからない。しかし、少し様子が分かってくると、どうも真理は別なところにあるのではないかという疑念が沸いてくる。これまでは情報のソースが限定的だったのでなかなか障壁を突破できなかった。書物や論文ではスピードが限られていたといえるだろう。大量の書物を読んでいても著者の言いたいことをどれだけ真剣にわかろうとしているかという努力にもよったのではないだろうか。
日本の産官学の研究現場ではおそらくこれらの情報障壁のことは誰しも直感的には問題だと従来から気がついている。しかし、日本の社会の研究や開発の構造が情報の横の連携を許さない構造であったということなのだろう。現在はインターネットの時代になって、全ての知識が全世界同時にフラットに共有されるという驚異のニューロンもどきの人類の頭脳統合が実現しているのだ。われわれはその頭脳の真っ只中にいる。アイザック・アシモフが40年以上前に「ミクロの決死圏」として描いたSF小説は今現実になっているのを誰も気がついていないのだろう。我々はまさしく神経腺維の中に生存しているのだ。すなわち、その気になればわれわれは全世界の必要な知識を相応の確実さで入手できる状況にある。